藤谷治さんが開いているフィクショネス句会に初参加してきました。
下北沢の街を若干迷いながらたどり着くと、藤谷さんは、使いこんだチェロを弾いておられました。
『船に乗れ!』3部作を書くために、かつて使っていたチェロを取り出して練習されているのだそう。


当季の俳句四句をそれぞれ持ち合い、7人で句会。
藤谷さん司会で、明るくにぎやかながらも皆真剣で、実に楽しかったです。
私は初めての場所、初めて出会う人との句会で緊張したせいか、力みすぎの俳句を出してしまったかもしれません。

 足首のリボンほどけて夏ゆふべ    
 ダリヤ咲く苦しき馬鹿をさらすごと
 僕たちに行先はない草いきれ
 水草の花の沈黙生きたいか

・作ったけれど出さなかった句
 七月の子は隙間へと入りゆけり


座をともにした詩人のカワグチタケシさんから、水草の句の批評の時に、伊東静雄さんの「水中花」という詩のことを教えていただきました。


 水中花     伊東静雄

水中花(すゐちゆうくわ)と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳(ことし)水無月のなどかくは美しき。
軒端(ば)を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜(よ)と昼のあはひに
万象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。



この梅雨の季節に読むと、体感として言葉が沁みこんでくるようです。