冬に想う

 昨日の朝、朝御飯を食べながら、本上まなみさんが、サハラ砂漠を旅するドキュメンタリーを観ていた。砂漠の中に一匹のラクダが死んでいて、本上さんがそれを見ながら、自分がラクダだったら、あんなふうに死んでも、淋しいって思わないんじゃないかな、とつぶやいていた。人間がみると、淋しいことのように思ってしまうけど、ラクダだったら、自然なことだと受け止めるんじゃないか、というような事を言っていて、感心してしまう。


 そうだよね。人間だから、いろいろ思うから、いろんなことを知りすぎているから、いろんな淋しさを、感じて、感じすぎてしまうのかもしれない。


 本上さん、ラクダのキャラバンに数日ついて行ったあと、別れ際に、キャラバンの人から火打ち石をもらっていた。つやつやと光る黒い石。自立のための石だそうだ。ひとりで生きていくための石。おだやかに感動。


 なんてことを思いつつ今日は、今年はじめての学園仕事で出勤。会うたびにあけましておめでとうございます、と挨拶してから山のようにたまったリポートのチェック。


 お昼に新年会で食べたランチが胃にもたれ、疲れ切って帰宅。


 夜、リンがスキーバス旅行に出かけるのを見送る。キヲツケテネ、ムリシナイデネ、とロボットのまねをしながら、云う。

 子供が親になげかけてくるものは、親への問いであり、子供が生きていく姿が、その答なのかもしれない。わかりにくい問いも、わかりにくい答も、あったりするかもしれないけれど、みんな。
 きのうの「冬の運動会」に出てきた家族のひとりひとりの想いを反芻すながら、そう考える。


 エレベーターに乗り込む息子を思いつつ、お笑い番組を見ながら大笑いする娘の背中を見つつ、なんだかんだいっても、わたしはこの二人をとても愛している、と思う。



・砂の中に一人の少女胸に持つ自立の石はぶつかりて 火を  東直子